重要なのは、意識的な観察すら必要としない電光石化の反応である。つまり、少なくとも意識によりとらえたどんな情報も頼りにしてはいけないということである。このことを悟ることはその弟子にとって大いなる収穫なのである。
さらにもっとずっと困難で決定的に重要なことは、どうしたら最もうまく敵と対決できるかを考えたり探ったりするのをやめることである。実際、敵と対決しなければならないこと、そしてそれは生死を懸けた問題であることすら、念頭から一掃しなければならない。
このような指示を受けた弟子は、初め、敵の行動について観察したり考えたりすることをやめればよいのだ、と理解する―ほかに考えようもないので―。
そこで弟子はいたって生真面目に観察しないようにし、自分の一挙手一投足をも規制する。しかし自分自身に集中するあまり、どんなことがあっても敵を見まいとして戦っている自分自身を意識してしまう。
何としても心の中には自分が存在することとなる。自分から離脱しているように見えるだけで、自分を忘れようと努力すればするほど、ますます固く自分自身に縛られることとなる。
自分に気持ちを集中させても何らよくならないということを弟子にわからせるには、非常に繊細な心の指導がかなり必要である。弟子は敵と同様に、断固として自分自身をも無視することを修得しなければならない。
根本的には、自分に無頓着で無為自然の境地である。(中略)しかしひとたびこの練習が効を奏すると、自意識は霧散し、まったくの無為となるのである。
この無為自然、自己離脱ができるようになると、本能的に敵剣を躱すまであと一歩となる。敵の打ち込みを見ると同時によけてしまったように、今度は敵をよけると同時に攻撃を加えることができる。
「攻撃するから自由に動いてみて」
これは昔、武道の先生から言われて一番戸惑った言葉です。
何をしても良いとう自由な条件が、逆に何をして良いのか分からずとても窮屈に感じました。
どうしよう?
何が良いだろう?
失敗したらどうしよう?
教わった型や技の中から何を選んだらよいのか…考えれば考えるほど迷ってしまう。覚悟が決まらないうちに師匠からの攻撃がくるので、動きがとてもぎこちなかったように覚えています。
今思うと、“良い動きをしよう”“的確な技を使おう”と意識したのがよくなかったんですね。それが「自分に気持ちを集中させても何らよくならない」ということなのだと思われる。
大事なのは、考えるよりも先に感じて動くこと。技を使う必要はなく、避けるだけでも良かったのだと思います。でも、ずるいですよね。先生から「攻撃するから何かしてみて」と言われてしまうと「良い動きを見せて評価されたい」って思いますもの。
“技にこだわるな”
“ただ歩くだけでいい”
“何かしようとしなくていい”
師からのこうした教えは、“自分をよくみせたい”“何か素晴らしいことをしなくては”といった自己(自我)からの離脱を述べた言葉だったのかもしれません。何かしようとしない方が、かえって素直(自然)に動くことができるということなのだと感じました。